自殺を試みる広告たち
初めてその種のCMに出合ったとき、私はうちの液晶テレビが壊れたのかと思った。なにしろ画面が突然暗くなって、見えなくなったのである。サングラスのせいかと疑って、はずそうとしたら、かけていなかった。そりゃそうだ。夜だったし、だいいち室内だ。芸能人じゃあるまいし、私は夜、室内でサングラスはかけない。
暗い。コントラストがない。影がない。
光が少ない、とでもいえばいいのだろうか。まるで月の光で撮影したかのように、薄明かりなのだ。あまりの暗さに私は目を凝らした。目を皿のようにして見入ったのだった。注目度、抜群である。
影のないCMはファッションから蔓延しはじめ、ションベン小僧の登場する飲料CM当たりで、ピークを迎えた。さすがの私も、それら薄明かりの、あるいは薄暗がりのCM画面が、うちの液晶TVのせいでも、サングラスのせいでもないことに気付いた。
そう気付いたころ、今度は悲劇の、あるいはサスペンスドラマの番組宣伝だと勘違いして、食い入るように見たCMが登場した。それらは画面が暗いばかりか、話が暗い。恐い。その手のCMに最初に出合ったのは、たしかマンションのCMだったような気がする。家族が、今にも心中しそうな表情でひたすら暗く佇んで、超暗い会話を交わすのであった。
暗いだけではなく、もっと恐いCMは、親子でごはんを食べながら、父が子に醤油かなにかをとってやるCMだった。いや醤油のCMではない、たしか宝くじかなにかの広告である。どうも子供にくじが当たったらしく、父が媚びているというストーリーらしい。その父の表情が、暗い。恐い。まるで借金に追われて夜逃げする寸前の父親の表情なのだ。身につまされて、恐いのである。
世相を反映しているのだ、と評論家あたりの声が聞こえてきそうだが、私に言わせれば、CMにそんなふうに世相を反映してもらいたくはない。明るい夢を与えてくれるのがCMの立場ではないか、と言いたい。CMは何がなんでも目立てばいい、というものではないだろう。
ものすごい早口のCMがある。目立ちたいからだろう。沈黙して一言もしゃべらないCMも最近多い。これも逆手をとって目立とうとしているわけだ。こうした工夫は認めよう。けれど、暗いCMの氾濫を私は許せない。
二十年以上前に「夢がないのに夢は語れない」と自殺してしまったCMディレクターがいたけれど、今もまたそういう時代だとしたら、だから明るい広告を作れないのだとしたら、広告は、しばらく沈黙していてくれる方がありがたい。
暗い広告が、商品を売るとはとても思えないから、もしかしたら、作り手はこうしたCM作りで自殺を試みているのかもしれない。
(広研レポート・6月号)